1950年代から60年代前半にかけての西鉄ライオンズの黄金期に大エースとして大活躍された、「鉄腕」稲尾和久氏が11月13日に70歳で亡くなられた。このニュースを知ったのは当日の朝起きてすぐのことだった。つい1か月前、札幌で行われたパリーグクライマックスシリーズ第2ステージのテレビ解説で出られていただけに、正直信じられなかった。


札幌での解説の時は声しか聴くことが出来なかった。稲尾さんがテレビの生放送に出ている様子を最後に目にしたのは、俺が8月下旬にライオンズの応援で福岡へ遠征した時だったかな。夏の高校野球で九州勢の佐賀北高校が優勝し、決勝の翌日に凱旋する時だったな。RKB毎日放送で夕方にやっている「今日感テレビ」というワイド番組があるのだけど、稲尾さんはその番組のレギュラーコメンテーターを務めていて、たまたま佐賀北凱旋の日が出演日だったんだ。俺はその日、昼間お土産を買いに行き、ホテルに一旦持ち帰って、ヤフードームへ応援に出発する前にテレビをつけたら、稲尾さんの姿をみられたんだ。ホークス戦の野球解説で全国を飛び回るだけでなく、ワイド番組でもRKBと関わりを持っているのだなぁ、いろいろ出演して忙しそうだなという印象を持った。その時はお変わりなく元気そうだったし、福岡のテレビ出演でお目にかけて3か月後にこんなことになろうとはね…


稲尾さんの現役時代はもちろん生で見てはいない。マスターズリーグなんかで投げているのをちょっと見ただけで、あとは解説を聴くくらいだったかな。現役時代の記録は本などで見たことはあるけれど、年間42勝、日本シリーズでは1シリーズで5度の先発を経験、1958年のジャイアンツとのシリーズでは3連敗の後で4連投して全て勝ち投手になったことetc. 今後も破られることはないであろう記録が並んでいるなということで驚きの連続だった。父親からは「とにかく凄かった」という話を聞かされていた。野球界の年配のOBの方々の中には、「今のいい投手、例えばダイスケ(レッドソックス・松坂)やダルビッシュなんかよりずっと凄かった。球のキレだけでなく、針の穴を通すまさに精密機械のような制球力が抜群だった」と称賛される人もおられる。今はプロ野球選手の球筋を体感できるマシンを置いてあるゲーセンやバッティングセンターもあるような時代だから、上手くすれば稲尾さんの投球の様子も復元できるのかもしれないな。「凄い」という伝説にとどまらず、全盛期の姿をとにかく一度生で見てみたかった。


稲尾さんは確かに現役時代は華々しい記録を残していたけれど、監督としては8シーズン務めてAクラスに入ったのが2度のみだった。現役引退してすぐにライオンズの監督になった時は直後にあの「黒い霧事件」に巻き込まれて、戦力が満足に整えられない状況で指揮しなくてはいけない状況に置かれて、不遇だったのかなという気もする。あとは温和な性格も災いしたのかもしれない。よくはわからないけど。


一昨年に仰木さんが亡くなられ、今年の春には当時主軸を任されていた関口さんが亡くなられた。そして今回、西鉄ライオンズ黄金期戦士の中で唯一といっていい医者要らずであった稲尾さんが急逝された。福岡から所沢へライオンズ球団が移転して来年で30年になるけれど、ライオンズが昔は福岡に本拠地を置いていた事実を知っているファンはどれだけいるだろう。子供たちなんかは殆ど知らないのではないだろうか。ライオンズの球団事務所に当時の品が置かれているわけではないし、ホームページにも、ファンブックにも福岡時代の歴史の記載が全くないのだから。今回の稲尾さんの逝去へのコメントの中で気になるものを見つけた。小林球団社長のコメントなのだけど、


「今日のライオンズにとって、振り返ると、最も重要な一人だった。あれだけの投手はもう出ない。球団としてご冥福をお祈りしたい」 (スポーツ報知2007年11月13日より)


というものがあった。このコメントからは、福岡時代のライオンズに関して少なからず意識があるように感じられた。というかそう信じたい。過去には、親会社が代わると同時に本拠地を移転させたチームがライオンズ以外にもあった。今ではホークスがそうかな。ホークスのHPをみれば、南海(本拠は大阪)時代の記録もきちんと掲載されている。本拠地が変わっただけで、チームが全く別物に変わったわけではないのだから、歴史がその時点で完全にぶち切られてしまい、しかも消されてしまっているのはおかしい。OB会も福岡時代の方々と所沢時代の方々とで完全に分けられているし、今のライオンズは異常であると昔から思っているんだ。この原因を作ったオーナーも既に辞められているし、西鉄ライオンズの黄金時代を支えた方で現在も健在の方がどんどん少なくなっている(主力では中西太氏、豊田泰光氏、和田博実氏など)のだから、今こそ歴史上の和解をする絶好の時期ではないかと思う。所沢の球団事務所にある「西武ライオンズのあゆみ」のコーナーの片隅にでもいいから、西鉄時代のユニフォーム、グッズ類を1つ、2つでも置いてみたら、ファンは西鉄−西武(間の2つは省略)のつながりを理解できるだろうし、特に昔西鉄ライオンズを応援していて、今はファンを離れてしまった方々の球団に対する見方が大きく変わるんじゃないかな。今年の10月に別府市にオープンした稲尾さんの記念館に置かれている銅像なんかを置いてくれたら最高なんだけどな。


西鉄時代、西武時代の両方を現役として過ごし、福岡での弱小球団時代、そして所沢へ移って徐々に強くなっていった時代を良く知っている方の1人として東尾修氏がいる。東尾さんのHP、HIGASHIO.COMの11月13日分のコメントには、東尾さんが入団当時に稲尾さんや家族と接した時の様子、さらには稲尾さんから学んだ投球術について書かれていた。東尾投手は稲尾さんが現役最終年に入団し、翌年には稲尾さんが監督になっているから、まさに稲尾さんの一番弟子のような存在なのだろう。新聞では稲尾さんと現役時代にしのぎを削り合った方々のコメントが多く載っていたようだけど、同じ投手同士、愛弟子の1人でもある人のコメントももっと大々的に取り上げて欲しかったな。


先ほど稲尾さんの記念館のことをちらっと書いたけれど、来年福岡へ遠征応援に行く時には、是非とも別府まで足を伸ばして記念館を訪ねてみたいと思っている。別府の記念館に、福岡城跡の隣にある平和台球場の跡地。両方の土地を訪れ、西鉄ライオンズ黄金期の「野武士ぶり」を感じ取ることが出来れば、当時の野武士軍団にあって、今のライオンズ選手達にないものが分かるのかもしれないな。


稲尾さんは生前、ホームページを開設されていました。
リンクはこちらです。今でも閲覧は出来ますが。


ホークス戦を中心とした試合評論、選手・監督時代の成績が載っております。
今年1月から、日刊スポーツ西部版に連載されていた「鉄腕人生〜白球とともに」(全50回)もみられるようになっています。こちらは稲尾さんの半生を振り返ることが出来る素晴らしい連載モノなので、まだ読まれていない方は読まれてみては如何でしょうか。

  • ライオンズの球団史に対する私なりの考え方については、昨年豊田泰光氏が野球殿堂入りをされた際に書いた記事(2006年1月14日)の中でも書いておりますので、こちら(矢印をクリック)をご覧下さい。