殿堂入り

先日、野球界の功労者をたたえる野球殿堂に入られる方々が発表され、野武士軍団・黄金期の西鉄ライオンズOBであり、文化放送の現役解説者でもある豊田泰光氏が特別表彰として殿堂入りされた。豊田さんは、毎週木曜の日経新聞朝刊のスポーツ欄に「チェンジアップ」というコラムを書かれている。今週のコラムではその殿堂入りについても触れられていた。さらに、こんなことも書かれていた。


1978年にライオンズが西武に買収された時、黒い霧事件の印象を一掃したい球団は公式ガイドに西鉄時代の記録を載せず、縁を切った。この一件で、(氏の)語り部としての意欲を更に掻き立てられた。


「ライオンズ・暗黒時代の記録の抹殺」。今の球団に対して憤りを感じることの1つである。コラムにかかれていたように、西鉄時代の歴史については、西武ライオンズオフィシャルガイド、公式HP、いずれにも「買収」という事実のみしか書かれていない。球団ビル内にも1980年代から90年代にかけての黄金時代の記念品の数々が並べられている。確かに、所沢に本拠地を移し、1982年に日本一になって以降のチームの栄光は素晴らしいものである。
福岡・平和台球場フランチャイズを置いていた時にはどうだったのか。忌まわしき「黒い霧事件」のイメージがつきまとうけれども、それ以前、1950年代後半〜60年代前半にかけて、短い期間ではあったが黄金時代があった。1956〜58年に3年連続でジャイアンツを下して日本一になった3度の日本シリーズの激闘は今でも球史に残る戦いとして語り継がれている。福岡時代も暗黒時代だけではなく、輝いていた時期もあった。西鉄時代と西武時代の栄光をコラボレーションされることで、ライオンズの輝きが一層増すのではないだろうか。
僕自身、1980年生まれであるため、福岡時代のライオンズはリアルタイムには知らない。しかし、野武士軍団として球界を凌駕した時代の話は、父親から聞いたり、自分でビデオを借りてきたりして、知識を養った。


今では、福岡ドームのスタンドはどの試合も95%以上がホークスファンで埋め尽くされる。ライオンズ戦も例外ではない。僕自身、2003年9月、2004年のPO第2Sと2度(計5試合)ほど福岡へ遠征応援に行った経験がある。その時に、球場の大半を占めるホークスファンからちらほら聞いた話の中に、


「(福岡でのパリーグ同士の試合で)、ビジターのファンが一番多いのはライオンズ戦だろう。」


というものがあった。28年前まで福岡に本拠地を置いていたわけだから、あり得ることかもしれない。ホークス球団の営業の上手さもあり、年々ホークスファンが増えていき、従来はライオンズのファンであった方々の中にもやむなく寝返る方もいらっしゃるようだ。そんな誘惑に耐えてきたのが、現在でも福岡一円で熱烈にライオンズを応援する方ではなかろうか。


福岡のレフトスタンドで応援経験のある方は知っていると思うが、スタンドでは西鉄時代の球団旗もふる応援団の方もいらっしゃる。球団旗以外にも、私設応援団や後援会の旗が数多くふられ、数としてはライトスタンドのホークス応援団の旗と遜色ないくらいだ。応援をリードする方の熱の入り方もそうだけど、少ない人数での応援の熱さは、所沢を上回っているのではないかと思っている。


西武ライオンズ西鉄ライオンズとは無縁ではありません。
西鉄ライオンズの黄金期を支えた、河村英文氏(元投手)、仰木彬氏(元二塁手)の両氏が昨年お亡くなりになった。古き良き西鉄ライオンズ時代を支え、現在でも後世に向けて語ることの出来る方々が年々少なくなっていく。逆に、喜ばしいこととしては、黒い霧事件で永久追放処分を受けていた幻の大投手・池永正明氏が、晴れて処分を解除され、球界に復帰された。
今年は、西鉄ライオンズジャイアンツを初めて破って日本一に輝いた年から50年目の節目の年。急に方針転換するのは難しいかもしれないけれど、球団としてライオンズの歴史を振り返り、見方を改めるのに、今ほどふさわしい時はないのではなかろうか。このことに関して、球団に対して声を上げることの出来る機会があれば、是非とも尽力したいとも思っている。




1978年までライオンズがお膝元としていた平和台球場。遺跡調査のために、今では写真のように球場は解体されてしまったが、スタンドの一部は残されたままになっている。福岡時代のライオンズの歴史、ファンを重要視している僕は、福岡へライオンズの応援に行った時には、平和台の跡地を必ず訪れるようにしている。球場は現存しない訳だけど、足を踏み入れることで、当時の様子を想像してみたりする。当時の雰囲気は体感したことはないけれど。
今年は8月最終週の週末に福岡でライオンズ戦2連戦が組まれている。もし応援に行くことが出来れば、またこの跡地で思いを巡らせたいと思う。