ライオンズの偉大なOBがまた1人・・・

パリーグ一筋を貫いて半世紀。現役時代は(西鉄)ライオンズ。指導者としては近鉄バファローズ、オリックスで多大な功績を残された仰木彬氏が、昨日(15日)の夕方に亡くなられました。
僕は昨日のスポパラ(テレ東系)でこの訃報を知ったのですが、驚きというか、現実のこととして捉えることが出来ませんでした。2か月半前まで、自分の応援するライオンズにとって敵チームの監督としてベンチにいらっしゃったわけですから。
今年、合併球団の監督として現場復帰をなされたわけですが、シーズン途中から「ベンチ内に仰木さんの顔が見えない」と語る野球解説者もおり、心配はしていました。シーズンの最終戦は所沢での試合でしたが、ベンチ裏の(長い)階段を昇ることが出来ないほど体が衰えていたということも新聞報道を通じて目にしました。どんなに体がボロボロになっても、監督としての仕事を全うされたという野球に対する情熱は心に響くものがありました。グラウンド、ベンチで命を懸けて戦っている人間がいる限り、ファンと名乗る我々も魂込めた応援で応えなければなりません。これまでも球場で応援する時は自分なりに一生懸命やってきたつもりですが、来年からは気持ちを入れ直して頑張りたいと思います。


現役時代をリアルタイムで見ていない僕にとっても、仰木さんの思い出は数多くあります。

  • 独特な選手起用(日替わり打線、絶妙な投手交代)
  • 個々の選手の長所を伸ばす育成法
  • ドラフトでのくじ運の強さ


僕がライオンズファンになった年には、今でも語り継がれる10・19(1988年、バファローズvs.オリオンズのダブルヘッダー)があり、その翌年には西武球場でのバファローズダブルヘッダーでブライアントに4打席連続本塁打を喰らった10・12の(ライオンズファンにとっての)悲劇。オリックスの監督になられてからは、95年にオリックス戦17連敗を喫したこと、96年には西武球場オリックスにリーグ優勝を決められたこと、90年代後半はオリックスの本拠地・神戸が鬼門だったことetc. 仰木さんの率いるチームには苦しめられた印象ばかりが非常に強く残っています。
仰木さんは2球団の監督を務められましたが、近鉄バファローズの場合は打線の主軸の爆発力を生かした攻撃的な野球、一方、オリックスでは逆に投手力で守り抜く野球というように、チームによって全くスタイルの異なる野球でいずれもチームの好成績に結び付けました。今年の場合は、中継ぎ投手陣のやり繰りで、前年最下位のチームをプレーオフ進出争いの出来る位置にまで押し上げました。8月中旬、ライオンズが3位のオリックスに対して6ゲーム差をあけられた時には、24年ぶりのBクラスも覚悟しました。最終的にはライオンズが3位に滑り込む形で終わりましたが、特にシーズン終盤での仰木さん特有の投手起用には血気迫るものを感じました。


選手の育成に関しては、野茂のトルネード投法イチロー振り子打法など、個性を決して潰すことなく、長所をうまく伸ばす方法でスター選手へと育てあげました。仰木さんなくして、マリナーズイチローは存在しなかったでしょう。


ドラフトの際には、8球団での争奪戦になった野茂をくじで引き当てるなど、運の強さが印象に残ります。左手でパッと引いたら「交渉権獲得」の当たりクジだったというエピソードから「魔の左手」と恐れていました。


記憶をたどって語りだすときりがなくなりますが、仰木さんは日本のプロ野球界の球史に名の残る方であったことは間違いありません。亡くなる間際まで監督として、そして最後はシニアアドバイザーとして貢献された、まさに終身監督(アドバイザー)の名にふさわしい方でした。
来年以降もシニアアドバイザーとして、「グラウンド外からライオンズの前に立ちはだかる大きな壁」、そして「優勝するには越えることが必要不可欠な壁」であって欲しかった方が亡くなられて、非常に残念です。

今後も天国からプロ野球界を見守っていて下さい。
ご冥福をお祈り致します。